index <  日誌 < K夫人:目次 < p11(追加)



〜1ーb 導き(追加)。

それは「集団」の中で、人間を無意識に支配してる情緒や気分、雰囲気や「空気」とでもいったものなのである。自分でも意識することなく、知らず知らずのうちにそのように馴染んでゆくのである。そうやって自分というのが集団の中にいつの間にか溶け込んで、一体化してゆくのである。

そうやって「集団」といったものが、そしてその暗黙の了解事項とでもいったもの、タブーやシキタリ、仕草(しぐさ)や作法、習慣や馴(な)れ、クセとでもいったものが、つまり、「文化」というのが生成されてゆくのである。そうやって、それぞれにとっての人間関係の役割や立場、機能、そしてまた、その集団独特の情緒や気分のあり方、雰囲気とでもいったものが出来上がって行くのである。

そうしたことが、いつの間にか人間を支配する必然性や原理として定着して行くのである。あるいは、そうした必然性こそが、そこで生きる人々にとっての現実なのであって、そしてまた、自己の生存と存在の可能性となっているのである。それ以外の生き方というのを出来なくしているのである。そして、人間を知らず知らずのうちに支配していて、規制し続け、方向づけ、条件づけているのである。

これが、人間が生きている現実の「舞台」なのであって、この規制され条件づけられた舞台の上でのみ、人間は現実に生きて行くことができるのであって、また、人間が人間たりうることが出来るのであって、それは、人間が生きている現実の世界を意味しているのである。

それは、人間が生きている現実の条件、それが拠って立つ背景を言っているのであって、人間がその上で生き、暮らし、活動して行くところの、現実の世界を指しているのである。そして、このような条件や方向性なしには、人間というのは、現実に存在し得ないのであって、人間という概念もまた成り立たないのである。

それは、肉体という物理的・空間的な世界であるのみならず、それが現実に生きて活動している心理的・時間的な世界でもあるのである。それは自分の中にあるにもかかわらず、それでもなお、意識されることのない無意識の世界なのである。自己の一体性と永遠のタマシイ(魂)の世界なのである。アイデンティティー(自己意識)とも言われている。

自分の中にあって、遠いどこかで自分を誘い、導き、いざなっている、そうした言葉になる以前の、つまり、意識や思考以前の祈りや叫びの世界なのである。思考や感情以前のところにある本能的な衝動の世界なのである。

自分が自分に対してあらわであろうとしている。自分で自分を問い、見つめ、省(かえり)みている。自分で自分の記憶をたどり、そしてそれが、はたして何だったのかというのを、確かめようとしているのである。そうやって安心もし、納得し、そして落ち着き、周りのみんなに対してなじんで行くのである。



 戻る。                        続く。

日誌  <  目次。