群れる理由。


自己認識ないしアイデンティティーは自分自身との関係、つまり、自分が変わったと思う場面で意識される。あるいは、他者との関係でも意識される。日本とユーラシア大陸、自由諸国と全体主義諸国、東洋と西洋、ユダヤ人もそうだ。身近な障害者との関係でもそうだ。そうした関係性の中で自分が意識され、自覚もされる。どこか、相手と違う自分というのを意識してしまうのである。

このような、自分自身に対する関係性は、社会の中における自分の立場とも関連していて、そうやって自分の居場所や役回りが与えられ演じられる。それなしには、自分の居場所も、役割も、立場も不明のままで、他人からの迫害と圧迫の脅威にさらされる。そして、ちょうど手ごろなイジメのターゲットとみなされる。

個人だけの中立は実力のない立場であって、従って、イジメの対象にほかならず、だれか強い権威の下に入ってこそ、イジメと迫害から逃れられる。つまり、個人というのは異物、ヨソ者、異人なのであって、だれかの強力な傘下に入ってのみ、自分を維持し保存し続けることができるのである。だから、「群れる」のである。

だからまた、このような「群れる」意識のなかでは他人との上下関係の中でしか自分を見いだすことができない。自分で自分を意識するということがない。意識しないで済むし、意識することが出来ない世界に住んでいる。また、そうである限り自由であることもない。

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