「固定せる精神」


中世儒教社会における、変わらないこと、そして永遠に不変であることが理想とされるのは、なぜか? コメの「稲作」という生存のシステムが、それを求めるからである。変わらないということが、このシステムの前提だからである。このような、自己意識のないところに真の変化はなく、そして変化が無いということがこのシステムの条件なのである。

自分が望み、願い、欲し、そして生み出したものが、そのまま現実の権威として、絶対の強制力・オキテとして自分自身を拘束し、それへと従属する。人間が何かを志向するのはそこで止まったままである。

権威への従属こそが自分の本性であり、そして、それを絶対的なものとして受け止めている。それらすべては自分自身が生み出し、自分が作り出したものであるにもかかわらず、自分の外から、自分とは別のものとしてやって来て、自分を縛りつけている。

そして、この状態を自然で当り前の普遍的なものとして受け入れている。だれも、それに逆らったり、疑いをいだくこともない。それは、生まれながらにして備わっている常識であると思い込み、信じている。

もちろん、それはそうだとも言える。それは、その共同体の内部だけに限って見るならば確かにそうなのだ。それがこの閉じたシステムの限界線になっている。また、これが不変で固定した人間関係の理由であり、自意識の根源ともなっているのである。そうやってこの「社会」というのが維持され持続してゆくのである。それがこの社会のシステムなのである。


      ×               ×


このような儒教の固定せる精神は、観念の世界だけでなく、それが反射して映しだした現実の世界にも表れている。現実の地理的空間上も、歴史の上でも常に中心点が存在し、それへと人間の自意識が志向されたままで、まるでそこから「出る」ということがないブラックホールのような意識の世界である。

しかし実は、人間の自意識がそれを求めている。自分の存在の理由を他者に求めるとすると、本来自分にしかないものを他者に求めているのであって、ないものを求めるがゆえに、それは目でみて確かめることが出来るものでなければならない。とすると、例えば地理上の首都であるとか、どこそこの偉い人とかにそれを求めるしかないのである。

目次へ