「理由」
〜1、疑惑。
みんなの集まるところ。祭り、学校、職場、公民館、コンビニ・・・等など。学校と職場はほとんど強制である。集める人も、集まる人も、いったんそこへ入ってしまうと断れないのである。だから、はんば強制であり、それを律するものとして校則とか就業規則が定められている。 そうやって規律と集団としてのまとまりが形(カタチ)作られてゆくのである。しかしそれ以外の、祭りや電車の中、駅などでは、本人ひとり一人の自覚だけで成り立っている。公共のエチケットとかマナーがそれである。日本語で言うところの躾(シツケ)である。 礼儀作法、立居振舞、しぐさ、顔の表情とか言葉のやり取りのパターン、型式(かたしき)などがそれである。そして、そうしたことは幼い頃からのシツケからきていて、たいてい誰もそれに気づくことはない。気づく必要も、気づくキッカケも、気づかされる場面といったものもなく、そしてまた、気づかなければならない、などといった理由そのものがないのである。 むしろ、それは気づかないのが普通であって、気づいてはならないものであり、だれにとっても気づかないままでいるほうが都合がよいのである。というのは、そうやって世の中がトラブルもなく、うまく回って行けるからである。 それに気づき意識するということは、自分自身の存在や社会の成り立ちを見ようとするもので、自分自身と社会に対する理由と正当性に疑惑をいだくことになりかねないからである。だから、深く考えない方がよいと、よく言われるのである。 |