「理由」

~5、解放。


つまり、自分の肉体の感覚と意識が、それぞれが別のことを感じている。精神が分裂して対立したままである。だからこそ、思考によってムリヤリ統一されている。そうやって、偽りの、見せかけだけの精神の安定が保(たも)たれている。

しかしまた、この思考とは、自分の思考ではなくて、自分の外にある権威からの押し付け、ないし、借りものであって、だからまた、偽(いつわ)りとならざるを得ないのである。自分の理由、ワケといったものが、他人によって意味づけされているのである。

自分が他人によって決められてしまうのである。だからそれは、どんなに素晴らしい意味づけであったとしても、やはり、ごまかしであって、白々しいニセモノにしかならないのである。

だから、そうした人間を見て人型ロボットとかナリスマシ人間というのである。そしてまた、そう言う人間もまた、ナリスマシ人間を超え出ることがないのである。そうであるしか無いのである。そうした社会の枠(ワク)の中で生きているのだから仕方がないのである。この枠を出たところに自分を表現する場所などないのである。

社会的人間とはこのことなのである。この枠(ワク)を出たところに社会のキズナ(絆)など存在しないのである。残念ながら、この枠を通してのみ、自分は社会的存在たりえるのである。だから自分もまた、ナリスマシの人型ロボットであるしかなく、そしてまた、このような現実を通してのみ、自分が映し出されてくるのである。そしてこうした現実の際限のない自己否定の中から、それを通しして自分自身というのが追放(または解放)されて、押し出されてくるのである。

もどる。             つづく。