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「意識の場面」
見るもの、聞くもの、触れるもの、それは自分自身が現実となったすがたである。自分自身の姿が現実の世界に映し出されたのである。自分で自分を意識したがゆえに、現実というのが自分に対峙するものとして迫ってきたのである。しかし、この意識する自分とは誰のことなのか?自分を見ている自分とは、自分にとって他人なのである。 しかしまた、この自分の中に住んでいる他人こそが自分自身なのである。そうして、自分で自分を意識しているのである。それは自分が自分を意識する場面なのである。自分を外から見ているのである。自分を他人のように見ている「自分」とは、自分自身のことなのである。それは、とっても大事なことであって、人間が自分を意識する瞬間なのである。 × × 一つは、外の現実の世界を通して。 自分とは違う他人の暮らしや考え方と通して、それとは違う自分というのを、意識する。他人とは異質な自分というのを知ることになる。 というのは、存在の理由というのがあって、それも民族によって、様々な異なる現れ方をするし、また、存在の理由そのものが、違うということである。そしてまた自分は、自分自身の理由からも切り離されてしまうのである。というのは、自分で自分を意識せざるを得なくなるのである。自分を見つめ、自分を自覚せずにいられなくなるのである。自分で自分を反省しはじめるのである。 もう一つは、内なる自分自身を通して。つまり、変化する現実の時間の流れの中で自分を見ている。自分自身が変わってしまったと気づく時である。過去と現在をくらべて、自分が違うと気づく時である。違うということを通して、自分にしかない独自性とか、自律性を発見してしまう。 それと同じことを、世界史という、もっと巨大なレベルで見ると、他国との交流・抗争を通して自分を自覚する場合(空間)と、 自らの民族、または他国の歴史を通して自分を知る場合(記憶)とに、分けられる。一つは、自分たちが生きる空間の領域の内と外の違いを通して。もう一つは、自分たち、または他国の時間的変異、すなわち「歴史」と通して。そうして映し出される自分自身のあり方を通して、自分というのを知ることになる。 戻る。 |