< 春カスミの世界。


〜7、「暗示」


この色、春のシロさは、世界をおおい尽くす生地、
背景としてのシロさであり、水の色であり、
水蒸気を豊富に送り出す暖かい春の空気の色であり、
そしてそれは、冬の終わりの生命の誕生とめざめの色なのである。

ふわふわ、ひらひら、ふっくらと、何かにいだかれるような、
そんな、優しげでおおらかな、あらわで隠すことを知らない、
そんな、いま生まれたばかりの色である。

カスミで、輪郭というのが途切れとぎれに薄くなって、
遠くにかすんで見えて、色だけが鮮やかに浮かんできて、
せまってくる。なにもかもが薄ぼんやりと丸みをおびて、
まるで半透明になって背景のシロさに、薄く溶け込んでいる。
やはり、これは何かの象徴であり、予感であり、暗示している。
そして導き、いざなっている。それが春の日の、
空気と光の色なのである。

もしかすると、それがシロ色という、感覚の感じ方の始まり
なのかも知れない。そうやって人間は色というのを、
心の感じ方の記号として、感覚の感じ方や感性として
カタチ作って来たのではないだろうか。人間の感覚というのが、
もともとそのようなものとして、求められ、生まれ、
そしてそれが当然のこととして、固定化して来たのではないだろうか。

だから「色」というのは、人間にとって、外のものの色だけではなくて、
そう思い込むことを要求した、人間の都合や感じ方をも示している。
色を透かして人間は、自分自身の感じ方を見ているのである。
そのように感じている自分自身の、身体の仕組みと、
精神の世界を見ているのである。

春の日の空気のシロさとは、その場の情景の色であり、
人間と世界をつないで、つつんでいる基調の色である。
このシロい空気が世界を支配している。
すべてはこのシロい空気の中で行われ、進行してゆく。

自分と外の世界との間に何かがあって、それを透かして現実を見ている。だから、現実というのが何か得体の知れない空気によって導かれ、いざなわれているように思えてくるのである。自分が逆らうことも避けることもできない、そんな世界を生きているように。すでに始めから何もかも定められていて、そんなあらかじめ仕組まれた世界を生きている、そんな気がしてくるのである。

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