<1u 自意識
〜4、「暴力」
義務は偉い人という他人から、自分のもとへやって来る。 自分は従うだけで何も考える必要はない。 それがみんな(共同体)のオキテといったもので、 なにも考えてはならないし、また、個人が自分で考える などといったことは、みんなにとって見れば、災いのタネ、 みんなのキズナ(絆)を破壊する、あってはならないことなのである。 それは心情的・情緒的存在である。個人の自意識や、 自己意識を排除したところにしか成り立たないものである。 理性や合理性、思考以前のところにある、そして、 それの源泉となっている情緒の世界である。 いまだ、個人が生成される以前の、情緒の世界なのである。 だからまた、主観のわがままと気まぐれ、思いつきだけが 支配する世界でもある。 そしてそれらを統合し、共同体として維持し、 継続して行くのは、シキタリと習慣、オキテといったものである。 もちろん、愛の感情や優しさといったものがあるのだろうけど、 シキタリとかオキテといった場合、それは強制力であって、 やってはならないこと、してはならないことを定めて、 そのなかに人間を押し込めるものであって、またそのなかでのみ、 本来の愛の感情や優しさがめばえるというものである。 だからそれは、言い換えると、善と悪、文明と野蛮、 理性とわがままの、見えざる境界線なのである。 そしてそれを維持するのが、シキタリという強制なのであって、 どうしても暴力、それも不可解な、理解に苦しむ暴力を 想定せざるを得ない。「見せしめ」、あるいは社会的統合の 象徴としての暴力が認められるのである。 ただたんに、ある個人に何かをやめさせるための暴力、 というよりも、それが社会的合意、共同体(みんな)の 共有意識の象徴として意味がある、ということである。 これが東アジア的儒教社会といったもので、 キリスト教的自己意識は存在しないし、あってはならないし、 理解もされない。それが理解されないことによって 成り立つ社会なのである。 |