人格の破壊。
神聖なもの、貴いもの、絶対存在、 あるいは権威といったもの。 そうしたことが、ものとして見える。 ご神体、肖像画等々である。 というのは、自分の本質といったものが、自分の外に、 自分以外のところにある、ということである。 そこから、絶対的服従、暴力というのが正当化される。 この「権威」というのは、ストレートな肖像画だけでなく、 間接的な記号や偶像としても現れるが、それでも 精神的なものを感じることが出来る。しかし、 直接的な肖像(または写真)といったところに、 野蛮で残酷な暴力が感じられる。 それは、外からやって来る純粋で直接的な 肉体的暴力として表現される。 それは、絶対的強制力であって、自分の肉体のみならず、 精神までが他人のものとして扱われる。 それは自己の精神を破壊するところに成り立つもので、 自己の精神が「もの」として、それも自分の外にある「もの」 として扱われる。かつてのインドのカースト制度、アジアの儒教道徳、 今日の北朝鮮、そして戦前の日本帝国がそうだった。 何も考えずに生きて(または死に)行けるシアワセな世界 かも知れない。事実、かつては誰もがそれを望んだではないか。 |