めざめ。


心地よい、感じよく、おだやかで、柔らかく、そして優しく。自分が何かにふんわりと、とっとも大事に包まれている。ふわふわ、ヒラヒラと、まるで空中を漂うように、とても気持ちが良い。うれしいし、たのしく感じられてもくる。ここはいったいどこで、僕ははたして何をしているのだろう?

優しく親しげで、何のためらいも、戸惑いもなく、ありのままのすがたで自分がでている。自分の姿が露わになって、開いて、めざめて、広がっている。自分というのが、そのままで外に出ている。何の制限も、境界も、限界も無視して、それを乗り越えて、限りなく広がり昇って行って、溶けて、世界と一つになってしまった。

自分のなかで何かが、めざめたのだ。そして、それが外の世界へ出て行って、もう一度、再び自分を発見して、確かめ、抱きしめているのだ。本当の自分、はだかのままの自分、シキタリや常識や、そうした外から強制された自分を捨てて、ホントの、ありのままの自分にめざめたのである。

こうした心地良さ、感じよさ、気持ちよさというのは、何かしらわけのわからない情緒の世界であって、自分で意識することなく、夢の世界を見ているのである。それが、なぜだか自分でもわからないまま、いつの間にか気持ちがおだやかで、やすらかになっていて、そして何やら得体の知れない優しげな空気のようなものが、僕を柔らかくフワフワと包んでいて、僕を抱きしめて、いざない、導き、そして何かへと誘っているのである。

何かとは、自分の外の世界へと誘っているのである。自分が開いて柔らかくなって溶けてゆくのである。そうした心情、心の動きといったものは、教会や寺院のカタチにも、よく現れている。あるいは、絵画や彫像などの芸術作品もそうである。

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