「形式的考え方」


〜3、理由。


自分にとって、そしてまた誰にとっても、もっとも大事なことは、生きている意味であり、理由であり、自分がまさしく自分であるという、たしかな証明である。それらは本来、自分自身で獲得してゆくしかないものなのであるが、現実はそうはなっていない。

それらは普通、一般的には、他人から与えられる。そうした、自分自身の思い込みと偏見は、信仰や信念、確信として外からやって来る。そうした自分に意味と理由、そして他人とのキズナ(絆)とつながりを与えてくれるのが、学校であり、地域社会であり、テレビと新聞なのである。

主観としての偏見が、群れて媚びて迎合して常識となり、客観となる。そして普遍へと向かう。だからやはり、私たちは偏見と迷信の世界を生きていると言える。そしてまた、このような様々な偏見や主観を集約して、これに方向と範囲、枠組みを定めたのが秩序ある社会と言える。文明や政治体制の前提と言える。

だからまた、他人の忠告とか、みんなの意見というのは、たいてい間違っている。他人もみんなも自分の考えというのがなくて、ただ、形式的に表面上迎合しているだけだからである。自意識というもの、自分で考え反省するということがないのである。偉い権威らしき者の言っていることを、自分の頭の中にコピーしているだけなのである。

自分で考えたこともないし、考えるということがない。そうした意識の自律したものが、もともと自分の精神の中に無いのである。だから、思考というのが、すべて他人のコピーから成り立っているのである。だから、みんなの意見というのは、迎合と自己放棄の結果なのであって、もっともアテにならない疑わしい意見なのである。

もどる。              つづく。