「形式的考え方」


〜5、考えない。


だが、ひとことで言って、それは面倒くさいこと、だれも考えたくないこと、どうでもよいことなのである。大事なことは、それがいま現実にあって、確かなこととして定められているということなのである。だとすれば、それを前提に、その上で生きてゆくしかないのであって、とすると、やるべきことはとっても明白なのである。

とっても解りやすく簡単なのである。すでに骨格として出来上がっているこのシステムの体制を延長し、そしてその隙間を埋めて、拡げてゆくだけでよいのである。それだけ、つまり何も考えてはならない。むしろ、考えない方がよいいのである。

わかりやすく言うと、与えられ、定められたレールの上を、ただ死にもの狂いで走るだけでよいのである。考える苦しみは不要なのである。自分のタマシイをのぞき込まなくて済むのである。自分自身の心の中であれこれ思い悩む必要がないのである。自分自身を見つめ、問い直すといった場面が無いのである。自分の中で自分を発見することもない。だからまた、ラクだし、だれにも受け入れられるのである。

「形式的」というのは、このことなのである。だから、だれもが簡単にそれに成れるし、そう確信させてくれるし、そのように思い込ませてくれるのである。つまり、表面の殻(カラ)だけあって、中身がカラッポの世界なのである。だからよいのである。ラクなのである。

もどる。              つづく。