「桜(さくら)」
〜1、夢。
日本では毎年、春先にサクラの木の下で花見が行われる。呑んで食って、歌って踊って、この世の憂(う)さを晴らし、陽気に春の訪れを祝い、そして喜ぶのである。だがしかし、こうした光景は僕には、今でもまったく理解の出来ないものなのである。なぜ、なぜサクラの花なのか? それも「散る」というのが、なぜにそんなにも楽しいことなのか? それが理解できないのである。はかなくも悲しいものではないのかと思えてならないのである。 サクラの花が「散る」のであって、どういうわけか「落ちる」とは言わない。「散る」とは、どこか感傷的な感じがするのである。もはや手遅れでどうにもならないのに、自分から進んで消えてゆくような、そんな感傷的な響きがある。どうも、サクラの花びら自体に理由がありそうである。サクラの花びらは非常に変わっているのである。日本人の情緒と心情にピッタリと合うのである。相性が良いのである。 サクラの花びらはとっても可愛(かわい)い。ふてぶてしくも、図々しくも、厚かましいということもない。しゃしゃり出てくることもない。自分の都合だけでスンナリと簡単に、あっさりと消えて行く。花びら自体も薄く半透明で、水を多く含んでいて、水膨れした、ふっくらと淡く、角がなく緩やか曲面が優しげで親しげな感じである。 そしてまた、いまにも壊れてしまいそうな、そんな一瞬の出来事である。はかなくも美しく、そして、とっても短いのである。それは見る者をして、なんとか守って支えてあげたいという言い知れぬ誘惑に駆られてしまう。それが一瞬の出来事で、永遠に届かない世界へと散って行くのである。冬の終わり、春の始まりの境い目の世界である。 そうしたことが、いまにも何もかもが壊れてしまいそうで、そんなとっても可愛く、限りなく美しく思えてくるのである。永遠に、手の届かなない世界のように思えてくるのである。だからまた、それはマボロシであって夢なのである。 |