「中世インドの残酷物語」



自己意識が欠落し、精神と生活のすべてが身分差別によって理由づけられ、支配される世界。それでは、いったいどこで自分を見つけるか? 空想と夢見る精神がこれである。そして現実の生活では、差別のシキタリが厳格に実行される。

そうやって自分の居場所が与えられ、と同時に、この身分差別の反対方向では、まったくの自由(または無法)が保障される。どんなことをしても、何をやっても許されると思えてくる。そして実際に許される。だから、だれもそれに従うのである。奴隷であると同時に奴隷の所有者なのである。自分は何も悩まないし、考えることもないのである。

無法と野蛮、残酷が思いのまま繰り広げられる。それは、こうした不合理な社会では、不合理であること自体が何か意味あるものと思えてくるのである。無意味な残酷さが、無意味であるほど重要で意味あるものに思えてくる。

理由なき差別が、気まぐれと恣意に理由を与えてくれるからである。そもそも、理由が無いのだから、表面上、目に見える形(カタチ)で理由を示さなければならない。とすると、極端な残酷さが意味あるものとして見えてくるのである。意味がないので表面上の過激さで、それを強調する。暴力と命令と恐怖が、それ自体でなにか意味あるものとして強調される。何もない、自分自身の存在理由がない所では、残酷無残であることそれ自体が、なにか特別に重要で意味あるもののように思えてくるのである。

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