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感覚というものが、それ自体で持っている「情緒」とでもいったもの。それは感覚と意識、外的自然と内的精神の接点であり、交流の場とでもいったもので、それらが一つにつながって連続し、統合され、まとまったのである。そうした状態が情緒であり、このような、主観的情緒の世界から、外の世界を見ているのである。肉体の感覚が、自分の外の世界を感じているのである。 無意識の状態で、意識することもなく、自覚されないままで、自分の外の世界を見ている。では、この時、私はいったい何を見ているのだろうか?祖先の記憶以外にない。それが、情緒というものである。もっとも安定しリラックスした状態の、自己の感覚の世界を見ているのである。感覚が、外の世界を通して感覚自身を見ている。自分が自分を見ている。感覚が感覚を感じている。僕の背中が僕自身をのぞき込んでいる。 長い進化の過程で堆積され固まって、骨格となり、安定しパターンと化して、リズムとなり、バランス(調和)されてきた、自己の感覚の最適化された状態を見ているのである。そして、それが求め指向してきた進化の過程と、それが指向する未来の方向性を見ているのである。 |
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