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肉体の記憶。



色彩と明暗の諧調が織りなす、ゆたかな映像の世界。光と影、そして色彩のバランスされたアンサンブルと調和。そしてその時間的な移り行き。それは、視覚という感覚の世界であって、たとえば、同じことが聴覚についてもいえる。

それはもっと内面的なのかも知れないし、和音や共鳴する音の世界の中で、まるで心がきしんで揺れて踊るようでもある。触覚でいうと、赤ちゃんとか陶磁器に触れる、フワリと透き通って溶けてゆく感じ。肉体の筋肉であれば、心地よいくらいの全身運動。水泳や、ゴルフとか、ダンスとか。

そうだ。ダンスがちょうどよい。見て触れて聞いて、そしてまた、身体全体で動いている。それも、時間の流れのなかで、変化し、リズムをとって、自分の中から自然に動いて行く感じである。

すべてそうしたことは、自分の感覚自体が本来もっている感じ方というもので、感覚が自分の意識とか思考を無視して、感覚だけで楽しんでいるのである。これは私以前の、私の肉体が持って生れてきた初めからそなわっている、「感じ方」といったものなのである。そしてそうした、感覚がそれ感覚自体として、感覚を楽しむというのが、情緒といったものではないだろうか。

なぜなら、それはもっとも最適化され、バランスされ、統合された感覚のあり方、そのリズムと時間的な流れ、そしてその本来の機能のあり方を示しているからである。かたよらず統合されていて、まるでオーケストラのように自由自在に。

それは、感覚器官といったものの仕組みや機能が、本来指向する方向や自由な発達の姿を示している。したがってまた、だからこそ、そうした状態が心地よく、気持ちよく感じられるのである。そうした、自己の肉体が本来もっている傾向、指向性といったもの、移ろう変化のリズムといったものが、「情緒」として表現されているのである。だから人間が、自分自身の感覚のうちに見たり聞いたりしているのは、自分自身の肉体のなかに堆積され保存されて来た、いわば肉体の記憶を見ているのである。自分自身の意識の預かり知らない無意識の世界をみているのである。

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