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5、禁忌。



日本では、儒教も仏教もキリスト教も、またその内部の様々な宗派も、みんなが仲良く共存している。それら異なる宗教の間で争うなどといったことは、聞いたことがない。私ども(筆者)には、まことに理解に苦しむところである。宗教は自分の信条であり、心の拠り所である。従って、その最後のところでは決して譲り渡すことの出来ないものなのである。

だからこれが宗教であり、信仰となり得るのである。にも拘わらず、それらが互いに対立することがないというのは、私どもには、どう考えても宗教とは言えないと思えるのである。要するに、こうした場合、日本では、それら様々な宗教以前のところで、それら外からの思想といったものを、取り入れ包み込む土台、下地、背景といったものがすでに出来上がっていて、また、その土台の上でのみ、そうした思想・宗教といったものが許容されているのである。

つまり、それが暗黙の合意であり、無意識の前提になっている。これが、要するに、日本のオキテとなのである。あるいは、これが日本社会の中での、すべてに優先する根源的で絶対的な強制力なのである。すなわち、これがすべての思想や宗教に優先する根源的な暗黙のオキテとなっているのである。もしもこれを否定するならば、もはや日本では生きて行けない。

これは、日本で生きて行く者にとっての、最も必要最小限の「決まり事」、前提なのである。これを否定する者は、もはや日本人ではなく、また、日本では生きて行けなく出来ているのである。逆にいうと、これだけは守っていれば、他の事はどうでもよく、何をしても許されるし、何をやってもよろしいということである。しかし、これはまた、他人が見ていなければ、「何をやっても良い」ということにつながる。


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