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「近代の君主制」



古代では社会経済の未分化、ないし、それを無視して、統治が上からの暴力ないし宗教によって統合されている。社会経済の必然性から求められる、個人の自主性と自立性に基づく自発的な結合では無かった点である。もっと正確に言うと、社会経済がそれを求めなかった、求めるまで発達していなかったということである。だから近代以前には、国民も国民軍という概念もない。

しかし、まさにこのようなシステムと、精神の内的必然性が君主制を生み出したといえる。それは、理性を自分で意識し、自覚して指向する、指向せざるを得ないシステムと言える。そしてそのシステムの構成要素、ないし前提となるのは、自立した農民同盟、都市同盟、組合ギルド、ブルジョアジー階層などである。

それはつまり、それら自立した同盟ないし階層の同意無しには、国家が運営できず、国家自体が成り立たないということなのである。だから君主というのは、それを統括し運営する責任者なのである。古代の王のような、自分勝手な恣意は許されないのである。

だとすれば、それは商工業などの経済の一定の発達なしには、君主制は成立し得ない。その現実の物理的成立条件を欠くからである。封建制は、身分上の意識せざる宗教的な上下関係が秩序の要(かなめ)であるが、君主制では、経済合理性が秩序の要、ないし、そうした方向性を指向するのである。


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