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2、信じるということ。



いわば、誇大に拡張された思い込みが、現実を何か別のものとして見せているのである。視覚の映像が思い込みの映像に歪曲されて、それがいつの間にか、無いものを見たと思い込んでしまうのである。いわば、現実から遊離逸脱した観念的映像を、現実と勘違いしているのである。幻覚に近いものである。

しかしまた、現実を生きる人間にとっては、何もかもが多かれ少なかれ、そのように見えているのではないだろうか。イヤ、それが普通で、当然で、正常な状態ではないだろうか。人間の感覚や意識は最適化され標準化されて行くのである。必要とその繰り返しが馴れとなり、常識となり、習慣となって、そして一般化されて行くのである。社会の中で共有され、共通化されて行くのである。

実際には何も見えていないのだから、見ていないのである。にもかかわらず、それでも見えていると、自分に感じられなければならないのである。そうでないと自分にとって都合が悪いのである。自分の記憶や感覚の感じ方に反するからである。社会という集団の感じ方に反するからである。いままでの自分と、いま現実に存在する「自分」というのを否定することになりかねないである。

それは自分の生き方やライフスタイルにも直結したものであって、生存のための人間関係の前提となっているものなのである。だからこそまた、そうでなければならず、そうであるはずなのである。それに反することは、自分自身の存在自体を否定することなのである。だから見えているはずだし、そしてまた、そのように、信じ続けるしかないのである。


戻る。             続く。

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