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丸暗記の表面的でカタチだけの考え方の方がラク(楽)なのである。かんたんで誰にでも出来るし、いつでも、どこでも、現実とかかわる必要もないし、そうした経験も、実際の自分の記憶や感情、情緒ともかかわる必要もない。ただ上から乗せてかぶせるだけで、何もかも完了するし、その他の事は何もする必要がない。 誰にでも大量に、均一に、同じものを押し拡げて行くことが出来る。そして、なによりも、何も考えないで済むのである。むしろ、考えない方がうまく行くのであ。そうしたことが、形式的な考え方というものである。他人の考えを頭の中ににコピーして丸暗記するだけで、自分のものになったと思えて来る。日本の学校教育が最も得意にする分野でもある。 思わなければならないし、思わされるし、そう思わなければ周りのみんなとうまくやって行けない。誰も彼も、自分の考えというのを忌み嫌うのである。これが日本のルールでありマナーなのである。無意識の、暗黙の掟(オキテ)なのである。 そうやって、なにも考えずに、感じることも経験することもなく、それで何もかも分かったと確信出来るのである。そして本人もまた、それを周りに広めようとするのである。 そうやって広めるということが、周りよりも自分が進んでいるし、周りよりも自分が上の立場にいると確信させてくれるのである。宗教みたいなものである。 つまり、何一つ、理解するということが無いのである。しかしまた、そうやって、すべてを理解したと思い込むことが出来るのである。それは観念の世界であって、現実とはやはり別のものである。しかしまた、だからこそ、非常にラク(楽)だし、効率的で、均質なものが出来上がるのである。また、大衆に支持されもするのである。 内面に立ち入ることはせずに、表面をざっとただ撫(な)でるだけで、なにもかもが、分かったつもりにさせてくれるのである。中身はどうでもよいのであって、まったく関知しないのである。だから良いのである。誰でも、どこでも、いつでも、みんなが同じように共有できる、そうした考え方なのである。そしてまた、それが、誰もが文句なしに納得しやすいカタチなのである。 |
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