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映る、写る、移る、そして移ろい。 そしてさらに、鬱(うつ)、虚ろ、空ろ。 これらのコトバはみな同じところから来ていると思えてならない。たしかに「ひらがな」で書くとみな同じ「うつ」である。古代日本に文字が入って来る前、また、一般の民衆の間に文字が普及する前は、たいてい同じ意味で、あるいは厳密に区別されることなく話されていたものではないだろうか。だから、その言い方は違っていても、その語源はみな同じところから来ていて、それが姿カタチを変えながら、結局は同じことを言っていると思えてならないのである。 例えば、映る・写る・移るというのは見え方なのであって、それ以前に、その原型となっものは不明のままである。それらは、その元になった初めの原型が様々に姿を変えて、表現されたものに過ぎないのである。 だから、それが表現された現実のすがた、映る・写る・移るの現れ方、見え方といったものは千差万別、無限なのである。にもかかわらず、その中にある根源の原型については不問のままである。だれもそんなことは気にも留めないし、どうでもよい、なんの係わりも、関係もないものとして無視している。 しかしホントに、ただ単にどうでもよいことなのだろうか?そうではなくて、どうにもならないことだから諦(あきら)めている、ないし、見て見ぬフリをしているだけなのだろうか。それは、人間にはどうにもならない、絶対的に抵抗不可能な不可抗力、運命や定めといったものではないだろうか。 |