index < 日誌 < e神々< 「古代インドの瞑想」 |
倒錯であろうと、偽(いつわ)りであろうと、だれにでもすぐにわかる「まやかし」であろうと、そんなことは現実を生きている人間にとってはどうでもよいことなのである。大事なことは、なんでもよいから、自分に何か意味と理由を与えてくれて、それも楽(らく)して苦労せずに、また、他人と争うこともなく、優しくおだやかに納得させてくれる、そうした意味と理由を与えてくれさえすれば良いのである。 ただそれだけで自分も納得できるし、まわりのみんなもわかってくれるはずなのである。古代インドの「倒錯」は、このようなインド人が望み欲したものなのである。それがもっとも簡単でラクな生き方だったからである。だれにとっても、そうだったのである。 そうした世界にあっては、本当の自分というのは、現実世界に存在し得ず、空想の中にしかないものなのである。それも、けっして現実化することのない、思いつきと気まぐれ、空想だけが支配する世界である。 現実化してはならないのである。自分のことを、自分で責任をとって生きて行かねばならなくなるから。だから空想と感情の世界から出てくることがないのである。出てきてはならないのである。 空想と迷信だけが支配する世界を、外の世界から客観的に見てはならないのである。世界が、偽りとウソの世界だということが、あまりに鮮やかに見えてしまうからである。それは、見えてはならないものなのである。知っても、気づいてもならない世界なのである。 反対にまた、だからこそ、先史においてインドの精神が、かくも広く世界中に伝播し、拡散し、広がっていったのである。 |
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