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自己意識が欠落し、精神と生活のすべてが差別によって理由づけられ、支配される世界。では、いったいどこで自分を見つけるか? 空想と夢見る精神がこれである。そして現実の生活では、差別のシキタリが厳格に実行される。 そうやって、自分の居場所が与えられ、、と同時に、このシキタリを離れたところでは、まったくの自由(または無法)が保障される。どんなことをしても、何をやっても許されると思えてくる。そして実際に許される。だから、だれもそれに従うのである。奴隷であると同時に奴隷の所有者なのである。自分は何も悩まないし、考えることもないのである。 無法と野蛮、残酷が思いのまま繰り広げられる。それは、こうした不合理な社会では、不合理であること自体が何か意味あるもののように思えてくるのである。無意味な残酷さが、無意味であるほど重要で必要なものになってくる。 気まぐれと恣意の理由なき差別に理由を与えてくれるからである。そもそも、理由が無いのだから、表面上、目に見えるカタチで理由を示さなければならない。とすると、極端な残酷さが意味あるものとして思えてくるのである。 意味がないので表面上の過激さでそれを強調する。暴力と命令と恐怖が、それ自体で何か意味あるものとして強調される。何もない、自分自身の存在理由がない所では、残酷無残であることそれ自体が、なにか意味あるものとして思えてくるのである。 |
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