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「祭り」



人間が、自分を「よし」として肯定するのは、いったいどういうことなのだろうか? それはいったい、どういうところで、どういう場面で起こることなのだろうか?

人間が自分を「よし」とするのは、以前の状態、以前の自分を否定するところに成り立つものである。以前の自分を捨てて、新たな、異質で、未知の世界に入ったときである。

そこでは、自分で自分のことを「よし」とするか、以前の状態に戻るしかないのである。「よし」とするのは、自分の判断と決断、自分の意志に基づいているのである。自分で自分をとらえているし、自分というのが、自分の主体として捉(とら)えられてもいる。

これは人間が、現実に生きる自分自身というものを否定し、新たな再生へと向かう情景である。そして、それはまた、自分自身はどうなのかという、自分を意識する場面でもある。

これは自分自身の否定、そしてその否定の肯定、破戒と創造、生と死、没落と復活、衰退と繁栄、あるいは嘆きと祈りといったもの。言い換えると、人間が自分の存在を否定すると同時に、新たな自分自身へと、自己を再生する場面なのである。

自分で自分を作り変えるのである。自分自身に対するこれまでの、自己認識・自意識といったものが初期化される。そして、ゼロから模索される。自分自身のこれまでの理由と原理といったものが捨てられて、新たな理由と原理が生成される。

以前とは何か、どこか異なる別のものになる。イヤ、実はそうはならない。そこまでの根本的な変化というのは滅多に起こらないことなのである。ただ表面上は、少し異なるように見える。外見と表面上だけ、体裁の上だけで違って見えるというのが、大事なのである。

ホントはだれも、根本的な変化というのを望まないのである。望(のぞ)まないのに、望んでいるように見える、ということが大事なのである。だれも本質的な内面の変化など求めていないのである。ただ、大義名分として、世間体として変わったと見えることが重要なのである。それだけで十分なのである。

内容や実体など、どうでもよいことなのである。それが「祭り」である。現実でも妄想でもなくて、その狭間の世界を垣間見ているのである。だからまた、そこにながく立ち止まることが許されないのである。だからそれは、やはり、祭りでしかないのである。


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