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それは、言葉とか理屈で言い表せられるというものではなく、だから、なにかイメージとか、音とか、あるいは感覚的なものを通して表現するしかないのである。それは、恐れや誘いであって、あきらめにも似た導きでもあって、身動きできなくなり、吸い込まれ、呑み込まれてしまいそうになる。そうしたわけの解らない叫びや怯(おび)え、自分でもどうにもならない、本能的な衝動とでもいったものなのである。 それが何なのか、明確な輪郭も、カタチも、あるいは理由や実体もわからないまま、自分が感じたままを表現してゆくしかないのである。だからまた、わからないというのは当然なのである。なぜなら、それはいままで無かったものだからである。現実に無いもの、知らないもの、未知のものを、表現のしようがないのである。 にもかかわらず、それが意識され、自覚もされているのである。隠しようがないのである。例えるなら、にごった水の中に何かが沈んでいて、浮き上がろうとしている。水の外からはそれが見えずに、何かが浮かんで来ようとしていることだけが、ハッキリとわかるのである。それがうれしいことなのか、恐ろしいことなのか、それ以前に、それ自体がいったい何なのか自分でもわからないのである。自分の中で起こっていることなのに。 だから、自分で考えて、自分で見つけるしかない。これがまさしく、自分自身というものの得体の知れない、底無しに不明な人間の正体なのである。自分が見えない、霧の中で薄ぼんやりと消えている。自分がだれなのか、自分でも分からないのである。 |