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「暗示」



象徴(シンボル)は、現実のすがたとは別のものを見ている。例えば、光の中に永遠を見るといった場面である。そうしたことは、現実の様々なものの輪郭線といったものが、空間のなかで歪んで、軋んで、動き、絡んで、つなぎ合わされ、一瞬の間、そうした場面や情景が何かのキッカケとして映し出される。

だからこの場合、人間は、外の世界を通して自分自身の内面を見ている。外の現実の世界の、ありのままの自然のすがたから、自己の内面を感じ、自分自身の心の中を見ているのである。気がつくとか、察するとか、思い当たるとか、気配を感じるとか、そうしたことが暗示され、導かれるのである。それが、人間にとっての、感覚の受け止め方、感じ方といったものである。

現実をそのまま見ているのではない。自分の都合に合わせて見ているのである。都合とは自分の個性であり、立場であり、生き方である。こうした主観と偏見の世界を私たちは生きている。

だからときおり、空間が歪むといったことが起こる。カゲロウ(陽炎)や蜃気楼がそうであり、人間の目の中で歪む「残像」や補色などもそうである。そしてまた、人間の頭の中で思い出される、やたらに誇張された記憶や思い込みなどもそうである。そしてまた、信仰や教義の熱狂状態の中で見る、幻覚もまた、そうである。私たちは、そうした象徴が導く主観と偏見の世界を生きている。

現実が簡略化され、それが象徴する記号や符号の印象として理解される。理解されたと思えてくる。しかしこれは誤解である。そうやって、現実というのが限りなく自分から離れてゆく。そして自分から「理由」が薄れて行き、喪失し、自分が見失われてゆく。そうして、失われてゆく現実の中で、未知の現実を探し求めている。

だから、象徴が意味するものを、もっとよく知らなければならない。それは、いまだ知ることのなかった未知の世界への予感であり、暗示であり、誘いなのである。

象徴が、向かうべきところを暗示し導いている。しかし、それが何なのかわからないままなのである。だから象徴のままでいるのである。それは何かの感じであり、ひらめきであり、予感なのである。あるいは、何かのタマシイ(魂)なのである。


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