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「家父長制」



家父長制は、家の内部における上下の秩序であり、それは、家の外での上下関係の秩序によって安定し、固定したものとなる。だから、家父長制の長は、国家や民族の長に対して限りなく忠実である。そうしてのみ、自己の立場を正当化できるからである。また、そこに社会の安定の基礎がある。

それは、社会のだれもが共有する全体の感情であり、生理的な情緒の世界であり、自己感情や自意識とは別のものである。ごく自然の当り前の、生まれながら持って出て来た先天的な感情と思われている。自意識とか理性が社会を成り立たせているのではなくて、こうした、理屈抜きの自然な感情が社会の基礎となっている。

それは、まだ人間が、自然状態のままなのである。まだ自然な感情の、生理や感覚のリズムの延長線上に社会が成り立っている。それは意識も自覚もされない自然と一体となった、そして、自然のままの無意識の感情の世界である。

反対に視点を変えて見ると、そうした感情なしには生きて行けない社会である。社会がそれを許さない世界でもある。これがこの社会にとっての暗黙の社会的合意であり、限界線になっているのである

もちろん、それが良いか悪いか、正しいかそうでないかというのとは全く別の問題である。むしろ、このような状態は、人間を隷属と屈従へと拘束するものでしかないのである。いや、むしろ、それがための自然な感情となっているのである。固定し、安定した、変化のない状態のまま持続して行くのである。それがもっとも安全で安心できる安定した、不変の世界であると思われている。

隷属と自由の放棄こそがその目的となっている。その目的とならざるを得ないのである。何も考えず、理解もせず、知ることもない。それが、こうした社会にとってのオキテであり、幸福なのである。死ぬも生きるも、自分のことを自分で責任を取らなくて済むのである。

隷属と自由の放棄とは、このことなのである。つまり、これが人間にとっての、自然なままの状態なのである。自分自身に対する意識も自覚もない、自然なままの状態。自然から抜け出ることのない、自然に支配されたままの世界なのである。「家父長制」とは、このことなのである。人権も、プライバシーも、人格もない世界である。

自分は何もせずに、だれか強い人にすがって生きてゆこうとする。そうである以上、なにも変わらず、そこから抜け出てくることもない、そうした世界である。また、そうである以上、どうしても「強い人」が必要なのであって、オキテとしての上下の関係と序列が出来上がる。歪んだ差別の意識がどうしても必要な社会である。

むしろ、家父長制に限らず、どんな世界、どんな時代でも、それはあるのではないだろうか。人間というのが、他人にすがって生きて行こうとする限り、それは必要不可欠なものではないか。


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