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E、意識されない自由。



古代ギリシャの自由は、あるがままの、自然な、意識されることのない自由である。人間が、意識も自覚もされないところで、それを意図して目的とすることもなく、まさに、そのような状態として偶然にもたらされ、現れ、生み出されたのである。

たしかに当事者から見ると、それは偶然であるが、自然環境の客観的条件や民族と人間の暮らしの成り立ちからすると、それはそうなるしかない、「必然」としか言いようがないものなのである。

このような自然条件、民族の歴史的・文化的あり様といったものは、まさにそれ(自由)が生み出される、制約された特殊な条件であり、歴史的にも地域的にも限定された、特殊な世界である。

自由というのが意識も自覚もされない世界、外から見るとたしかに自由そのものであるが、中から見ると、それは自由などではなく、当人の意思とはかかわりのない、習慣や常識をこなしているだけなのである。本人の自由な意思とか選択というのではなく、そうするしかないから、それしかないから、そうしているだけなのである。そうである限り、それは自由ではないのである。

というよりも、それ(自由)が何かわからず、理解の出来ないもの、わけのわからないもの、ただたんにわずらわしく、うっとうしく、まぎらわしいというだけの、災いのタネとしてのみ映っているということである。こうした閉じた現実世界から見ると、「自由」というのは、異質で得体の知れない、正体不明のものとして受け止められている。要するに、あってはならないもの、排除すべきものなのである。

このような閉じた世界というのは、人間が生きている現実のすべてが閉じている。限界があるということである。制約され、条件付けられ、規制されているということである。言うなれば、実験室のフラスコの中の世界である。

このような現実の中で生まれる思考は、歴史的・地域的概念である。自己を客観的に見ることもなく、また、自己の普遍性というものを知ることのない世界である。知ることも、知りようもなく、知る必要も、そしてまた、知ってもならない世界なのである。自分を意識してはならないのである。


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