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逆光で見るものの表面、それはつまり、陰(かげ)の世界である。太陽光に照らされた風景の反対側、つまり、裏の世界を見ているのである。だから、薄暗く、ノッペリしていて、奥行きのない、コントラストを欠いた、平板な感じになっている。実際、「暗い」というだけで、ほとんど何も見えない。 逆光という光の反対側。その陰の世界にあって光がほとんど届かず、光そのものが非常に暗く、またその光に方向性がないのである。光が弱過ぎて方向性を持つまで至らないのである。 この方向性がないということ、光そのものがあまりにも弱く、光に日向と日陰の区別がなく、影を伴わないということ、そうしたことが、なぜか見える風景をして非現実的で、時間が止まったような印象を受けるのである。 なぜ、光に方向性がなくて、コントラスト(明暗)を欠くのか? 逆光に閉ざされたその奥に見える風景というのが、すべて暗い間接光だけで映し出されているからである。太陽の光が直接当たることがなく、光が乱反射と回り込み(回折)をくり返した結果、空気を介して、照らされるはずのない光の影の部分にまで弱い光が届いているのである。 またこの、照らされる裏側の世界は、ほぼすべての角度から均等に光(間接光)が当たる。しかも、非常に弱い、薄暗いだけの光である。だから、光から方向性が消えて、まるで時間が止まったような印象を受けるのである。 「光」とは、自然状態では太陽の光であって、それは人間にとって時間を意味している。またたく星の光が遊牧民にとって、時間の方向であり、自分が今いる位置の特定であって、そしてまた、農耕民にとって昼の光の方向は、季節の移り変わりの順序であり、農耕と生活スタイルのスケジュール表であり、あるいはまた、日々の太陽の昇り沈みは、それぞれにとっての日々の生活の、段取りや順序を示している。 つまり、太陽の光とは、人間にとっての時間的な方向性を示している。暮らしの仕方やパターン、そしてそのスタイルと型式の枠(わく)を定めているのである。それは「空気」や「地面」、「重力」や空間的な「サイズ」などと同じく、それと意識されることはほとんどないのであるが、もっとも基本的な、なくてはならない人間が生きて行く上での現実の前提となっているものなのである。 |