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5、保存。

だからまた、それは同時に人間の感覚が、見ること聞くこと触れるものというものは、人間が現実世界から感じることが出来るもののことであって、このような人間が生きている世界というのは、「種」としての、自分自身の存在の仕方を見ているのである。自分で自分を見ているのである。

だからまた、そうしてのみ、この現実世界というのが、自分にとって意味があるものとして映ってもくるし、かかわってもくるのである。それは、たとえば、何色でもかまわないのであるが、人間はなぜ、「水色」が水色として見えるのかと問うようなものである。

それは「水色」が自分の中で映し出す世界というのを、たとえば、空や、水や、氷といったものを「水色」として記号化しているのである。そして、このような記号化そのものがいざない暗示するところの、自由や覚めた感じといったものを、象徴としての水色に求めているのである。

それを人間は、感覚のなかで水色で表現し、そしてこれを「水色」として後世に伝えてきたのである。そうした印象を、目という感覚器官の感じ方として伝えてきたのである。そうした感じ方として、肉体の感覚器官に保存してきたのである。

視覚器官の構造や仕組み、機能の仕方として保存してきたのである。それを私たち人間は、「水色」として理解しているのである。人間は、水色というのを、そのようなものとして見てきたし、そして今もそのように見ているのである。

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