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見えるもの。



人間は、自分にとって興味のあるものだけを見ようとしている。興味のないものについては、見えていても、見ていないのである。そしてこの興味とは、見ている者にとっての気まぐれや思いつき、あるいは何かの目的や衝動といった純粋に偶然が支配している。

しかし、この偶然は社会全体からながめて見ると必然なのであって、その社会の条件や仕組み、方向性といったものが個人にとっての偶然として現れている。個人の衝動や興味といったこと自体が、全体としてのその社会のシステムの要求に根ざしているのである。

個人にとっての願望や興味、そして何らかの必要や傾向といったものは、社会という現実のなかで初めて何らかの意味を持つものとなる。そしてまた、その現実の中でのみ解決してゆくことができるのである。

社会との関係をまったく持たない個人的な要求や願望、興味といったものは、本来なんの意味も持ち得ない。いわばそれは夢の中の世界なのである。現実に対して何の影響も与えることができず、なんの解決策も見いだし得ないからである。

社会との関係が切断されたところに、どんな感情も思考も成り立たないのである。考える本人のことばといったものが、いかなる意味も持たなくなってしまうからである。相手のいないところに思考は成り立たないのである。たとえ、ひとり言であっても、それは社会との関係のなかで自分を見ているのである。


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