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太陽の光を感じるのは、自分が目を開いているときか目覚めているときである。しかし目を閉じた夢の中でも光は感じる。そうでないと、ものが見えず夢が見えない。 だがしかし、それは太陽の光ではない。なぜなら、そこには影がないからである。そして足元も見えない。ものを照らす光に方向性といったものがないのである。だからどの方向にも影が出来てしまい結局、影が消えているのである。あるいは夢の中の、必要最小限の努力で見たいものを見ようとする傾向がそうさせるのかも知れない。 これが夢の中の世界である。つまり一人ぼっちの閉じた世界である。だから方向性も、指向するところも、目的といったものもあいまいで、支離滅裂で思いつきと気まぐれ、その場かぎりの情緒とか気分だけが支配している。 現実の世界では、太陽の光は方向性を示していて、それは時間を意味している。方向性とは、時間とともに変化するカタチであって、時間の概念のないところに方向性などない。指向するところも目指すところもない。現実の方向性とか、風景の中の様々なもの自体が持つ内的な指向性も、それが持つ時間的な経過をたどることによって始めて理解されてくるのである。 そしてそれはまた、日本における四季の生き物たちの生き方や暮らしにも大きく影響している。生理的・感覚的な感じ方や受け止め方、そしてその変化のパターンに深く関与している。というよりも、それと交流して一体化し、そしてそこから感覚や行動の型式が定められてきたのである。それは必然であり、生き物たちが生きて行く方向の傾向や条件を定めている。 |
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