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マキの山、火あぶり、死と灰の中、そして不死鳥。煙と光と熱の交錯。不規則、偶然、予測不可能。大気と空気の中で光の回り込み、ゆらぎ、カゲロウがたゆとう。ひらひらと、なにかが現れては消えて、何かを暗示し予感させ、そして未知の観念の世界へと誘い込む。 現実はここだけではない。もっとほかの現実があるのかも知れない。いまここで生きている自分は、他人なのであって精神は、自分のタマシイといったものは、もっと別の世界を生き続けてきたのだ。それがこのたゆとうカゲロウの世界である。ゆらゆらひらひらと漂いながら、ためらい戸惑い定まるということがない。 精神は、自分の肉体とは別の世界を生きている。肉体は体裁に過ぎず、どうでもよい仮の姿に過ぎない。ならば肉体はどうでもよい「入れもの」なのであって、精神はこの入れものを出て、あちこちへとさ迷いだして結局、肉体は誰でもよくだれの肉体へも入り込むことができるのである。 反対に、自己を放棄して他人のタマシイの奴隷になることもあり得るし、自己と他人のタマシイが合体することもあり得る。つまり何が言いたいのかというと、自己と他人の境界、その区切り線と区別がなくなるということである。 自己と他者を区別するこの境界線とは、それぞれにとっての「人格」を意味している。それは精神の世界、それぞれにとっての観念の世界にしかないものなのである。つまり、けっして現実には存在しないものなのである。だから不死であり永遠なのである。個人という現実を超えたところにある、普遍的で限りない永遠の存在なのである。 |
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