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・ 形式とは、 他のものと比較したときにみられる共通性であって、それはなにかの規則であり秩序なのである。そこから一般性とか抽象性が導かれている。しかし物事を形式の秩序として見ること自体が、すでに観念の世界で抽象化しているのである。だからそこから何か独自の原理とか、他のものと区別される自己の同一性が暗示されているように思えてくる。目には見えることのない観念の世界で、自己の精神といったものが意識されてくる。 ・法律とは、 外面的であって精神の内面には立ち入らない。自分の外から押し付けられる、自分の内面というのが道徳である。それは、西洋では自己の自立した内面から呼応しているが、東洋では、呼応する自己そのものがない。外から型にはめる形式的なものだけとなっている。中身がカラッポなのであるが、それを受け入れる「入れ物」自体が精神の中にないのである。それは、儒教では「入れ物」ではなくて「決まり」なのであって、シキタリであり、問答無用の絶対的な「オキテ」でなのである ・「信じるもの」とは、 自分のなかで、自分とは区別される、独立した共同体の意志というものを自覚することになる。この意志というのが、宗教であり、神である。 |