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「感覚のリズム」



たとえば、東アジアでは儒教道徳。つまり、目上(めうえ)と目下(めした)の関係に現れている。固定した上下関係がそうである。つまり、一種のカースト制度である。自己意識という概念のない世界ではそうならざるを得ない。米=稲作という生存の様式から来ているようにも思える。

つまり、特定の体制ないしシステムとは民族固有のものであって、シキタリや習慣といったものを基礎にして、そこから根ざしてきたものである。それはまた民族の風土、つまり、特定の地理や気候に依存した生存の様式と生き方がその前提となっている。もっと正確に言うと、これら「風土」は政治のシステムと一体化していると言える。

そしてそうしたことは、だれも意識せずにおこなっている。いままでもずっとそうであり続けたし、だれもそれに疑惑を感じたりしない。もしも疑惑を感じたりしたら、それ自体がシステム=政治体制にとっての犯罪と見なされる。だからだれも、無意識にそれを常識として、そのまま続けるのである。だからまた、政治体制と風土は一体化しているとも言える。

そうしたことは、だれも意識せずに行っている。いままでずっとそうだったから。そしてその延長線上を私たちは生きている。そしてこれが「時代」という概念である。そしてまた、社会の共有意識でありキズナ(絆)である。そしてこれを離れたところに個人というのは存在し得ないのである。

それは社会性というよりも、風土がもたらす生理的な情緒の世界なのである。思考とか意識以前の、それを包み、それを支配し動かしている、生理の作用とか感覚器官のリズムの世界なのである。

それが東アジアでは個を破壊する儒教精神として、西洋ではキリスト教的な自己意識の世界として現れている。

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