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自分が自分でなくなる。こんな恐ろしいことが他にあるものか。しかしまた、それは自分自身の、かつての失われた潜在意識の世界でもあって、それはそれで何かの可能性でもあって、かつての、今はなき自分自身の失われた方向性を示しているのである。 いまいる自分は、そうしたかつての自分自身の忘却した記憶の上に成り立っているのである。それは可能性だったのである。しかも、今は失われた自分自身の無限の可能性でもあったのである。 自分というのが自分自身にめざめ、あるいは、現実の世界で生きて行けなくなって、新たな自分というのを求めるとき、それは結局、自分自身の中に求めるしかないのである。そうしたことが、今は忘れられ、失われ、もはや断片や痕跡としてしか残っていない、かつての失われた自分なのである。 私たちは、そうした忘却のなかにある、過去の自分にしか自分を見つけられず、また、それ以外のところで何か新しい自分というのを見つけることができないのである。 つまり、これが自己の発見であり、発掘であり、めざめであり、そして自意識なのである。そうして、これをもとにして、そこから外の世界というのが新たに見えてくるのである。 |