――イメージをカタチに(・Image)――
index(索引)concept(概念)業務日誌(2007年3月15日  雑感、  市)


「石積み」。




石積みは10年ぶりだ。
恐れ入る。何かが根本的にちがう。
「和風」で石を積む時は何も考えてはならない。
そうすれば美しいのが出来る。(ヘタクソは別ですが)

和風庭園に、洋風庭園にみるような統一的秩序・整合性などない。
センスでも理屈でも合理性でもない。
何か言いようのない、その場その時の「空気」のようなもので積む。
理屈で理解してはならない。

同一の庭園が、自分のいる場所、時、あるいは気分によって、
全く異なる空間になってしまう。
こういうのは、僕には理解できない。
でも、しなければならない。
仕事だから。
和風感覚がなないのに。
うまくやらなければならない。


そもそも「和風庭園」の構成素材がほとんど自然素材なのだ。
ブロックもレンガもコンクリート製品も、ほとんど使わない。
テーマが、そうした天然素材そのものになってしまう。
ここが「洋風」と根本的に異なるところだ。

石にしろ植木にしろ、同じものなどこの世に二つとないのである。
植木にいたってはは四季によって、同じ植木が変化する。
それら素材間に、いったいどこに関連性があるのだろう?
それらを、同じ空間にむりやり同居させて、
「全体としての庭園」を構成する。
そもそも、こんなことが可能なのだろうかと悩んでしまう。
つまり、こうした思考そのものがすでに「洋風」なのだ。
すでに無意識の世界で、脳ミソが合理的秩序に支配されている。

日本の庭園に統一的秩序とか整合性などない。
見る位置とか四季によって主役(スター)がいつも変わる。
それどころか、各構成素材すべてが主役だともいえる。
なぜなら、いつでもどこでも、
あるいはそのときの雰囲気とか気分によって
異なる表情でもって眼前に現れるから。
まるで目に見えない「空気」のようなものですよ。

日本庭園の概念は、
日本列島の歴史・文化・気候・風土に深く関わっているように思える。
庭に現れた意識の構造として。
この世界に、数百年生きて来た精神の特質として。





  市 ・Image