息づき、まるで鼓動しているかのようだ。
自分が、限りない深みの中へ沈んでゆく。
この絵を支配している、
「空気」が生ナマしく伝わってくる。
しっとりしたナマっぽさ。
人の気配を感じさせる、湿っぽい空気が、
見る者の肌に直接触れる。
そうした、生きた情感。
それは、今は見失われた、
古(いにしえ)の記憶である。
言い知れぬ、持って生まれた、
先天的欠陥とでもいうべき情感。
致命的かつ決定的な、精神の空白部分。
この絵は、まさにこの「空白部分」へ、
この世の全てを無視して
まっしぐらに食指を延ばしてくる。
誠に、恐ろしさと憧れが同棲を始めたような状態になる。
そして僕には、
この絵が、遠い昔にどこかで見た絵のように思えてくる。
あるいは、自分が生まれる前から、
この絵のことを、よく知ってたようにも思えてくる。
もちろん、それは錯覚だ。
たしかに、知ってもいるし覚えてもいると思えて来るのは、
この絵が持つ特殊な雰囲気なのである。
覚えていたのは絵そのもではなくて、
この絵が描かれた心情とか情緒なのである。
そしてこの情緒とは、
日本列島が育んできた風土そのものだったのである。
それが、この古い絵を見たときに、
模糊とした感情として甦ってくるのであり、
抑えようのない生きた感情として、溢れてくるのである。
そしてそれが、何かのイメージように思えてくるのである。
だから、とても懐(なつ)かしく、
限りなくいとおしく思えてくるのである。
絵の中の人物の立ち居、振る舞い、仕草。
絵の構図、色彩など等……。
それらが渾然一体となって、
この絵を見る者に、何かを伝えようとしている。
もちろん作者は、そこまで思いながら描いてはいない。
にもかかわらず、そのように思えてくるのは、
それが、現在を生きる我々の、
引き裂かれた精神の空白部分だったからである。
自己のアイデンティティーに抵触する問題だったのである。
それは、その下で祖先が生きてきた、
文化の記憶、
今は失われた、自己の記憶だったのでる。
|