――イメージをカタチに(・Image)――
index(索引)<concept(概念)<ルネサンスへ<2013-0211-B 近所の展覧会での感想文
野辺の自然の荒っぽさの中にあって、 生きた生身の人の素肌。そのピンクの、 今にも傷つきやすい素肌といったものが、 否応なしに、何かを問いかけて迫ってくる。 直接、僕の心の中へ。 このような心理状態といったものが、 その絵をして、何か異様にコントラスの強いものとして、 僕に感じさせたのだと思います。 本来、日本人の肌は薄茶であって「ピンク」ではありません。 それが、ピンク色になるのは、 風呂上がりとか、室内で急に服を脱いだ時とかで、 肌が外界に対して全く無防備の状態であって、 すぐにまた「薄茶」色に戻るとおもいます。 だから、展示会でみたあの「素足」の色は、 屋外では、本来あり得ない「色」なのであります。 そして、この血色の良い肌色とは、 本来、赤ん坊の素肌のように無防備で、 柔らかく穏やかでふっくらした肉体表面を意味しています。 ところが、あの「絵」の素足は、なんといびつなことか。 ふっくらどころか、折れ曲がり、 かさかさしていて、潤いというものがほとんど感じられない。 このような、アンバランス。 現実との矛盾、あり得ない異様な場景。 そして、実はこの「あり得ない」ということが、 この「絵」をして、 よりリアルで現実的なものとして、 僕に迫って来たのだとおもうのです。 「あり得る」ことなど興味がないのです。 「あり得ない」からこそ、気になるのであって、 忘れられないのであります。 そしてそれが「リアル」というものではないでしょうか。 この場合、僕は目でこの絵を見ていたのではなくて、 自分の記憶とかカンといった、自己の心理状態でもって、 この絵を見ていたというべきでしょう。 それは何か、自分自身の中にあるタマシイ(魂)といったものが、 揺れてきしんであらわになったものであります。 それが僕をして、見えないものを見たと思い込んだり、 あるいは、この「絵」の素肌といったものを、 実際以上に明るいものとして思い込んだのだ、と思います。 それは、僕自身の「感じ方」といったものであって、 自己の精神の深い奥底にあって、自分を自分たらしめている、 祖先の記憶と交流しているのであります。 それは、自分たちの「神々」との交流であり、対話でもあります。 自分が今、生きている社会の中にあって、 自分といった者が誰で、はたしてどこにいて、 どう生きるのかといったものでもあります。 |