(  市)ルネサンスへ<2015-1023-5



記憶の痕跡。



祖先の記憶は、見ようとしなければ見えない。しかしまた、いくら見ようとしても、自分のなかに、それに共鳴するものがないと見えてこないのである。それが、心のなかで響いてこなければならないのである。

感情や情緒、そして感覚の生理作用の中に、それが何かの記憶の痕跡として残っていなければならないからである。実際にあった、現実の出来事ではなくて、意識されることのない感覚の、生理作用としての記憶なのである。それが感覚や生理作用の衝撃としてよみがえってくるのである。

自分の経験にない祖先の記憶、正確には、祖先の感覚の感じ方といったものが、自分の感覚の中に入り込んでいるのである。「気のせい」とか、「気配」とか、なにかの暗示や象徴といったものがそれである。

自分が生きている現実の、もののカタチや模様のなかに、自分自身の精神の世界を見ているのである。かつてこの地を生きて来た祖先のタマシイ(魂)の世界をみているのである。それは現実そのものではなくて、その見え方・感じ方として自分に見えてくるのである。

自分で、自分の感覚そのものを見ているのである。自分の感覚の感じ方を見ているのである。祖先が生きて来た過去の世界、自分の肉体や感覚が形成されて来た過去の記憶の痕跡を、自分の感覚の中に見ているのである。自分自身のなかにあって、自分自身を支配して動かしている、衝動や本能といったものを見ているのである。

 戻る。            

<ルネサンスへ