(  市)ルネサンスへ<2015-1023-7



風土と感覚のリズム。


たとえば、東アジアでは儒教道徳。つまり、目上(メウエ)と目下(メシタ)の関係。固定せる上下関係。つまり、一種のカースト制度である。自己意識という概念のない世界では、そうならざるを得ない。米作(稲作)という生存の様式から来ているようにも思えてくる。

つまり、特定の体制(システム)とは民族固有のものであって、自分たちが信じるもの、シキタリや習慣といったものを基礎にして、そこから根ざしてきたものである。民族の風土、つまり、特定の地理や気候に依存した生存の様式がその前提となっている。

もっと正確に言うと、これら「風土」は政治のシステムと一体化していると言える。そして、そうしたことは、だれも意識せずにおこなっている。いままで、ずっとそうであり続けたし、だれもそれに疑惑を感じたりしない。もしも、疑惑を感じたりもしたら、それ自体が、システム(政治体制)にとっての犯罪と見なされる。だからだれも、無意識にそれを常識としてそのまま続けるのである。だからまた、政治体制と風土は一体化しているとも言えるのである。

そうしたことは、だれも意識せずに行っている。いままで、ずっとそうだったから。そして、その延長線上を、私たちは生きている。そして、これが時代という概念である。そしてまた、社会の共有意識であり、キズナ(絆)である。それを離れて個人というのは存在しない。

それは、社会性というよりも、風土がもたらす生理的な情緒の世界なのである。思考とか意識以前の、それをつつみ、それを支配し動かしている、生理の作用とか、感覚器官のリズムの世界なのである。

それが東アジアでは、個を破壊する儒教精神として、西洋では、キリスト教的な自己意識の世界として現れている。

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