( 市)ルネサンスへ< 2016-0122-b
自己否定。
それは、人間がもともとそうなのではなくて、それは人間の外から やって来て、人間を押しつぶすのである。どこへも逃げ場がなくて 絞め殺されてゆくのである。だから、出てゆくしかないのである。 そうやって、今いる自分が捨てられ、新たに獲得されるのである。 自分というのが新たに発見され、あるいは目覚め、生成されて、 それまでとはどこか違うものになってゆくのである。 人間が好きこのんで、のぞみ、願ってそうするのではなくて、実に 仕方なく、どうにもならず、それ以外になく、そうするしかなかった のである。そしてまた、そうやって自分自身というのが自覚された のである。 それは、なにかに導かれてというよりも、踏んだり蹴ったりの袋叩き の状態のなかで、それに逆らってのみ、生き延びることができたの である。そうやってのみ、自己に目覚めることが出来たのである。 あるいは反対に、失敗して死滅してゆくのである。 たいていがそうであったし、今もそうである。あるいはまた、 精神を動物のように押し殺して、生き続けて来たのである。 インドのカースト制度、東アジアの儒教思想がそうである。 僕には、それがなにか、生きている屍(シカバネ)のように、 人間の顔をしたオバケのように見えて、仕方がないのである。 現実とは、そうした魂を欠いたオバケの世界なのである。 だれもが、他人の魂(タマシイ)をそっくりそのままコピーした だけのオバケの世界なのである。脳ミソも生活のパターンも そうである。偽善とナリスマシとイミテーションの世界である。 |