( 市)ルネサンスへ<2016-0212ーb
肉体の記憶。
色彩と明暗の諧調が織りなす、ゆたかな映像の世界。 光と影、そして色彩のバランスされたアンサンブル。調和。 そしてその、時間的な移り行き。それは、視覚という感覚の世界で あって、たとえば、同じことが聴覚についてもいえる。 それはもっと、内面的なのかも知れないし、和音や共鳴する音の 世界の中で、まるで心がきしんで揺れるようでもある。 触覚でいうと、赤ちゃんとか、陶磁器に触れる感触だろうか。 肉体の筋肉であれば、心地よいくらいの全身運動。 水泳や、ウォーキングとか、ダンスとか。 そうだ。ダンスがちょうどよい。 見て触れて聞いて、そしてまた、身体全体で動いている。それも、 時間の流れのなかで、変化し、リズムをとって、自分の中から自然に 動いて行く感じである。 すべてのそうしたことは、自分の感覚自体が本来もっている、 感じ方というもので、感覚が自分の意識とか思考を無視して、 感覚だけで楽しんでいるのである。これは私以前の、私の肉体が 持って生れて出て来た、初めからそなわっている、「感じ方」といった ものなのである。そしてそうした、感覚がそれ自体として、感覚を 楽しむというのが、情緒といったものではないだろうか。 なぜなら、それはもっとも最適化され、バランスされ、統合された感覚の あり方、そのリズムと時間的な流れ、その本来の機能の仕方を示して いるからである。かたよらず、統合されていて、まるでオーケストラのように 自由自在に。 それは、感覚器官といったものの仕組みや機能が、 本来指向する方向や自由な発達の姿を示している。したがってまた、 だからこそ、そうした状態が心地よく、気持ちよく感じられるのである。 そうした、自己の肉体が本来もっている傾向、指向性といったもの、 移ろう変化の流れといったものが、「情緒」として表現されているのである。 だから、人間が自分の感覚のうちに見たり聞いたりしているのは、 変わった言い方をすれば、自分自身の肉体のなかに堆積され、 保存されて来た、いわば、肉体の記憶を見ているのである。 戻る。 |