( 市)ルネサンスへ<2016-0325ーb
~4:相手。
それはいったい何に対する恐れなのか、あるいは心地よさなのか、 その対象がはっきりせず、あいまいなままなのである。 現実との接点がなく、現実からまったく切り離されているのである。 夢特有の暗示とか予感とか誘(イザナ)いといったものがないのである。 夢の対象というか、それが導くもの、ターゲット、示標といったものが 情緒の中にはないのである。夢のなかの対象がはっきりしない、 というのはこのことなのである。 ここちよい花園や、恐れおののく谷底には、どこかへ導き、指し示す ような、心の方向性、示標といったものが見あたらないのである。 また、そうした衝動や感情がわき起こってくる余地がないのである。 その対象、ないし示標といったものは、実は、自分自身の中にある 心の動きなのであって、それが見えてこないのである。はっきりしない というのはこのことなのである。対象のなかに示標が見えてきて、 はっきりしてくるというのは、自分で自分の心のなかを見ている のである。感情の対象や、衝動の相手を見ているのである。 そしてまさに、そうしたことが、動物のキバや谷底、花園や気持ちよい 雲の中には、無いのである。だからそれは、感情というよりも、 やはり、情緒の世界なのである。 しかし、感情を表現するとなると、やはり、人間の姿と表情がもっとも それにふさわしく、それ以外を持って表現することはできない。 感情は人間の表情でもって表現する以外にないのである。 人間の表情には何かを指向する方向性のようなもの、 衝動が情緒を突き破って、何かを求め、のぞみ、目指す姿を 見ることが出来るのである。こうしたことを、人間以外でもって 表現することは不可能なのである。 それは、自分の相手を通して、自分の感情を見ているのである。 そしてこの「相手」とは、自分の中に住む、もう一人の自分のこと なのである。自分自身のことなのである。自分の中にある意識され ざる潜在意識のことである。自分で自分の心のなかを、 のぞき込んでいるのである。 戻る。 お終い。 |