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教育。


錯覚は便利である。どうせウソだから何でも良いのである。どんな風にも錯覚出来るのである。錯覚自体が始めからそうなのである。要は、ただ自分を正当化し、自分に意味と居場所を与えてくれるものでありさえすれば、何でも良いのである。

だから、どんなことでも錯覚するし、錯覚しようともするし、そしてそれで何もかもが解決できたと、思い込むことが出来るのである。実際、このようにして世の中が成り立っている。

「NHK」の洗脳というか、感化というか、教育が人間を一つの共通の生き方にまとめ上げている。しかし、これ自体が錯覚なのである。このようにして自分たちが正義と信じる方向へと国民を誘引しているのである。

しかし、この信じる方向が間違っている場合も、当然のようにあるのである。そもそも、同じ一つの感覚と感情と思考であろうとするのが時代錯誤なのである。

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2019-0404-0416