〜〜以下、個人的覚書。

[p145]
そうした、生理と神経の反射作用を作り出したのは、その最も初期のキッカケとなったのが、まさしくこれ[月光]であって、しかしまたその果てしない繰り返しと、その歳月の経過によって、それが当初の原因となっていたのとは、まったく異なる別の意味と効果を持つにいたったのである。例えば、月夜の月光であったものが、夜の光だけとなり、夜の燈火であれば何でもよいものとなり、また、それへと「導かれている」という事自体が、それだけが結果として大きな意味と目的を持つにいたったのである。

もはや、それをもたらした原因などはどうでもよい、関係のないことであって、「導かれる」という事自体が、それだけで何よりも大事な意味となっているのである。それは単に、偶然の反射作用に過ぎなかったものなのであるが、それが幾世代の間に繰り返さることによって、馴れとなり、印象を象徴する符号となって、習性や習慣、シキタリやオキテとなって、無意識のうちに人々を動かし支配しているのである。

数百数千年もの前の昔、最初は偶然の条件反射に過ぎなかったもんが、変化した環境との対応関係から、いやおうなく繰り返され、それが無意識の日常的な、無条件反射となってしまったのである。もはや、それなくしては自分というのを自覚できなくなっているのである。

意識することも、気づくこともない肉体自身の、それが当たり前の当然の姿として定着してしまったのである。また、そうしてのみ、今ある自分の存在を残して行くことができたのである。今ある自分は、そうした過去の祖先が生きてきた結果なのである。

最初は偶然の神経や生理の作用に過ぎなかったものが、それが変化した環境の中でいやおうなく繰り返されて、やがてそれが常態化、日常化し、馴れや習性となり、そしてまた、生理と神経作用の変化を惹き起こし、、そしてさらに、身体のカタチと構造そのものまでも変化させていったのである。「種」というのが、それまでとは別の「種」になってしまったのである。

始まりは、身体の営みの変化に過ぎなかったものが、それに伴って生理的・神経的な変化をもたらし、それが日常化して数千数万年くり返され、やがて、身体そのものの物理的なカタチを変化させたのである。言い換えると、新たな種の発生、もしくは種の変異をもたらしたのである。




*2-p154
これは誤解または偶然の錯覚であって、プレッシャーといったものが、自分の中でそれとは反対の事を望むようになっていて、それとは関係のないささいなことでも、そうであるかのように思えてくるということである。どこでもあるような、どうでもよい偶然の普通のことでも誇大に拡張されて感じられてくるのである。例えば、ひどい暑さを経験した後での普通の冷たさといったものが、特に冷たく感じらるといったようにである。ひどく暑い夏を経験した後では、普通の寒さの冬でも特に寒く感じられる、といった具合である。人間の肉体の生理と感覚の「馴れ」といったものが、変化に対して、特にその反対に対して敏感になっている。またはその、感じるという感覚の心理といったものが、ある方向に対してのみ敏感になっていて、その範囲に対してのみ集中されていて、その範囲から離れたところの些細な変化に対して過剰に反応してしまうのである。つまり、これが「馴れ」といったものがもたらす影響であり、「馴れ」そのものなのである。人間は、知らず知らずのうちにそうした方向へと自分をコントロールし規制し導いている。自然環境に対してだけでなく、シキタリや常識といった社会生活においてもそうである。


 
・ 連合: 観念間の類似・接近・因果、錯覚と偶然。(←↓手書きメモ帳へ転記済み)
     ここでいう「連合」とは、様々な原因や条件、要素といったものが、複雑に絡み合い、錯綜し、入り乱れ、混じり合いながら、本来関係のないものまでが、重畳的(ちょう じょうてき)・複合的に、直接・間接にからみ合ってくる。そして結果的に連動・連携しているのであって、要するにひとこで言って、偶然と錯覚が支配する世界である。あるいはそれだけだと言ってよい。これは、そうした意味では、客観的なのであって、人間の主観や意図といったものが入り込む余地のない世界である。無意識で、生理的・情緒的な世界である。人間の精神といったものが、知らず気づかないまま、肉体だけがそれを知っていて、そしてこの肉体によって人間の精神が支配されている、そうした世界である。


・ 飽和:  あまねく純粋に広がる色の世界とは、常に変わらずに同じであり続けるというのではない。空間というのが時間的に大いに変化を繰り返しながらも、これを時間を遡って見て行くと、無限の変化を繰り返す空間といったものが、同一の秩序、ないし原理、あるいは自律性の下で変化しているという意味である。従って、まただからこそ、それは我々人間にとっては、なぜか気にもなるし、忘れがたい印象のカケラとして、それが果たして何なのか自分でも分からないまま残り続けるのである。]

[ 連合ー1
本書でいうところの「連合」の意味は、一般的な用語とは非常に異なっている。「連合」とは、ある現象が現れたところの、その条件や原因、背景といったものを、条件付け規制し方向づけた、そうした組み合わせ、関係のことを言っている。人間がそれを、たとえ無意識であるとしても、自分の観念の世界で整理し順序付け、秩序づけることによって自分にとって理解できるものにするということである。
     自分の中にある何らかの経験ないし慣れに基づいて、そこから復元し再現して行くということである。人間にして見れば、それ以外にそとの世界というのを理解のしようがないのである。知りようがないのである。他の方法や仕組みといったものを人間は持っていないのである。それが自分というシステムなのであって、そしてまた、これが人間のシステムなのである。人間がお互いを理解し得るのはこのためでである。これが自分にとっての、自分自身の原理や自律性、主体性といったものなのである。   

    連合ー2
様々な要素が重なり合い錯綜し、そしてそれらが全体として、諸要素の構成部分の連合として風景をカタチ作っているのである。要素の連合が風景を構成しているのである。それはホロスコープのようなもので、様々な無限の要素の組み合わせから成り立っているのであって、そのとき、その場所、その事情などによって様々に、まるで別のもののように見えてくる。同じものが表面上、無限の変化を繰り返すのである。これが「連合」ないし全体という意味なのである。
    様々な無限の要素から構成される風景の全体を「連合」として言い表している。これは人間にとっての風景の感じ方なのである。
    これら人間にとっての外的世界の総体としての、連携・連動した、直接・間接の、重複し入り混じった、偶然の錯綜した錯覚が、全体としての「連合的」諸関係を構成していて、そうした偶然の錯覚がもたらした結果としての、共同の作用が、私たち人間にとっての総体としての外的世界、すなわち風景を構成していて、そしてまた、それを現出させているのである。
    つまり、本来、関係がないように見えていたものが、偶然の重なりによって互いに連携・連動し合い、それまでとは全く異質な別のもののように見えてくるということである。あるいは表面上、そのような働きを始めるということである。つまり、見方、見え方、感じ方、そしていつ、どこで、どういうワケでという、そうした偶然の重なりが、または錯覚が、本来、同じものであるはずのものを、まったく別のもののように見せているのである。
    ]


[ <日本庭園の合理性>↑ これは大きな誤解である。日本庭園ほど、最高度に秩序的で計算され尽くされた庭園はない。表面上、非合理的に見えるけれども、それは思考や合理性を通り越した、より本質的で根源的な情緒の世界なのである。この意味で、それは真の芸術なのであり、最高度に人為的な作為の世界なのである。それは、無意識の暗黙の了解や、人間の精神や行動、営みといったものを支配する、不可抗的な誰も決して逆らえない、絶対的な空気が支配する世界なのである。]

+
    [  <暗闇の音色>
    暗黒の、そしてその中から聞こえてくる、静かな落ち着いた音色が、理由なき恐怖といったものを呼び起こす。自己の無意識の根源に迫るものとして感じられてくる。あるいは、むしろ反対に、こうした無意識の自己の根源といったものが、得体の知れない、理由なき恐怖といったものを呼び起こし、作り出している。
    場合によっては、こうした自分でもよく分からない無意識の、おののきや恐怖、驚きや戸惑いに対して、ムリヤリそのイメージを作り出そうとしている。あるいは、自分の中のどこかにあった忘れていたはずの、何かの印象や出来事と結びつけて、それを理由付けて関連させると共に、そうやって自分にとっての「意味」といったものを作り出している。
    何か、なんでもよい。未知のままでは困るのである。こじつけて、デッチ上げ、捏造し、ペテンでも詐欺でもなんでもよいのである。要は、自分にとっても意味といったものが、どうしても必要なのである。なぜなら、それなくしては、自分が自分でなくなるように思えてくるのである。
    この得体の知れない未知のものに自分がのみ込まれ、食べられてしまって、そうやって自分が破壊されて、自分が自分でなくなってしまうように思えてくるのである。そしたことが暗黒の闇の奥から聞こえてくるように思えてくるのである。一人ごとのようにつぶやき、ささやき、そした誘い、導いているように思えてくるのである。
    だから、どうしても「意味」が必要ななのであって、何でもよい、どんなことでも構わない、錯覚と偶然によって意味を作り出すし、またそのイメージや印象といったものを、自分の中からムリヤリ見つけ出して、関連付けて、正当化しなければならないのである。
    ]

    [ p390
  このような肉体内部の無意識で不随意の、自分でも預かり知らない、自分の中の未知の世界が自分というのを支配し、そして規制し続けている。これは自分の中にあって自分とは別の、偶然と錯覚だけが支配する肉体そのものの世界なのである。 
  肉体自身が、自分の意思とはまったくおかまいなく、肉体自身の都合だけで、様々な刺激や反応・作用といったものそれぞれが、それぞれに無関係に、勝手に重複し、錯綜し、入り乱れ、混じり合い、絡み合って、そうしたことの偶然の結果が、全体としての一つの情緒や気分のあり方、精神的および生理的な健康状態といったものを作り出している。
  そしてまた、そうしたことを人間は、身体の内部感覚を通して感じ取っている。気持ちや情緒の感覚として、自分自身の肉体内部から感じ取っている。自分自身の内部感覚として、嫌が上にも自分に迫ってきて、そして支配し方向づけている。自分自身の感じ方や考え方、行動のリズムとパターンとして、自分自身の固有の傾向といったものを作り出している。これは個性であって、個としての人間の、そこにしかない特質といったものである。
    ]

[ p394  もちろんこの場合、風景以外の無意識の触れる感じ、触動的で生理的・情緒的感触といったものは意識も自覚されないのである。見える風景は、こうした意識されることない、自分を取り囲む「空気」を通して、自分の中に入って来ている。無視することも逃げることもできない物理的・時間的な作用として、人間の無意識の世界を支配している。そしてまた、その上に意識や思考や感じ方といったものが作り出されているのである。]+


  [  p401    -20/06/16
  これら本来存在しないものは、回想から生まれる。こうしたことは、これらがかつて新しい印象が生じたときに、それが集まり積み重ねられていって、そしてそれが出来事の経験として、そうした物や印象や、また、何らかのそうしたことが無意識に想いだされる記憶の断片の象徴として、浮かび上がって来ているのである。もちろん、それが果たして何の事なのか自分でもよく分からず、思いだせずにいるのである。
  そうして、人間は現実にないものまでも、見たり聞いたりすることがある。これは何かの偶然の錯覚であって、かつて自分がどこかで経験した記憶が何らかの意味を求めて浮かび上がって来ているのである。そしてこれが偶然の錯覚となって、感覚の記憶に結びつくのである。
  これはもちろん、錯視・錯聴なのであるが、思い込みや願望、そして疲れといったものも大いに作用している。しかしそれだけではなく、人間というのがもともとそうなのである。こうした思い込みや個人的な無意識の願望なしには、人間は何かを感じることも知ることも理解することもできないのである。
  すでに自分の中で、そうした受け入れる下地があるからこそ、外の世界が感じられもするし、意識もされるのである。それは、新しい印象といったものを、何らかの自分がかつて経験した、自分でも気づくことのない無意識の記憶のカケラとどこかで結びついていて、あるいはムリヤリ結びつけていて見ているのである。
  たとえ未知のものであるとしても、この未知のものであるということ自体が、自分にとって知らないもの、自分の中にないものとして意識されているのである。言い換えると、自分の中の無意識の記憶と照合しているのであって、そしてまた、このような手がかりなしには、人間は何も印象に残らないのである。また、印象として映し出すこともできないのである。何かを感じることも知ることも出来ないのである。それがあるからこそ、彼はそれを未知のものとして知ることができるのである。何かを感じたり知ったりするのは、こういうことなのである。
  自分の中で、そうした何か新しい印象と結び付くものがなければ、あるいは少なくとも、たとえムリヤリでも結び付けるものがなければ、何も感じ取ることが出来ないのである。たとえそれが、確かな記憶にないもので、それどころかボヤけてもうろうとした、何かしらの意味不明の記憶の痕跡に過ぎないものであっても、やはりそうなのである。
  自分の中で、何かそれに対応するものがなければ、感じることも知ることもできないのである。共鳴し、響き合い、すり合わされ、そしてそれを外に向かって反響し、響き合うものが、自分の中のどこかにあるということである。自分の中にある、こうした得体の知れない正体不明のもう一人の自分が、外の現実を、自分の中で反射して映し出しているのである。自分の中で反射するものがなければ映らないのである。
  外の世界を自分というシステムが、どこかで共有していて、そしてそれに反応しているのである。外の現実を、自分というシステムの中で再構成して見ているのである。つまり、観念化しているのである。無意識の記憶の中でカタチにしようとしているのである。自分にとっての、そして自分自身の意味と理由といったものを見い出そうとしているのである。それは、どうしても必要なことなのである。「自分」とは、まさしくこのことなのである。そうやって、自分というのが意識され、自分というのを了解し、自覚しているのである。 

    人間は、こうしたことを不随的に、無意識の印象から生ずるものと同時に直接経験する。そして堆積して、そしてそれを基にして、そこから馴れや習性・習慣、常識といったものがカタチ作られてゆく。当事者たる人間の意思が預かり知らぬところで、人間の意思を規制し方向づけて行く。また内面的には、主体として当事者本人の固有で自律的な傾向、好みや願いや信じるものといったものを決定している。様々な地域において、歴史的に現れては消えていった、種々様々な民族の固有の習慣や常識、システム、そして信仰と宗教とシキタリを形成して行く条件になったのではないだろうか ]


    [  p409末尾 20/06/21: 風景は、自分にとって個々の偶然の出来事から生み出された、何かしらの象徴といえる。それが何なのか自分でも分からないのであるが、それでも、しかしまた、それが何なのか、どうしても知らなければならないものなのである。理由などは、どうでもよいのである。ただ単に、表面上だけでも理由でありさえすれば、それだけで良いのである。理由だけがどうしても必要なのである。そしてそれは、自分にとってどうしても必要で、なくてはならないことなのである。それは、自分自身の存在理由にも関わることなのである。
    自分にとってのこうした「象徴」を通して、人間は自分の外の世界を見ているのであって、それはまた同時に、他者と自分を区別することによって、自分を見ているのである。また、そうしてこそ、自分の外の世界を何かしら意味のあるものとして、納得しているのである。また、そうやって反対に、外の世界を通して自分自身というのを意識し、自覚することが出来るのである。外の世界の現実というのが、自分の中で反射して映し出されているのである。それはまた同時に、自分の中で反射するようなものがないと、映し出されることもないのである。ここで自己と他者が区別されるのである。
    象徴とは、何かしらの偶然の錯覚なのであって、意味や理由といったものが、何かしらのサインないし符号と化したものである。あるいは、記号、暗示、類推、示唆しているものとも言える。人間をして気づかず知らないままに、どこかへと導き誘う「道しるべ」のようなものであって、まただからこそ風景といったものが、人間にとって意味や理由を持ち得るのである。  ]


[ p434   昼と夜の間が晩である。明と暗の間、光と闇の間。薄明かりの世界、または人工の照明が作り出した仮空の世界。これは眠りとめざめの間、無意識と意識の間、潜在と顕在の間、要するにウトウトした、曖昧で漠然とした捉えどころのない「夢の世界」である。人間の観念が作りだした仮空の世界である。つまり半ば夢の世界なのである。    ]


    [  20/087/02 p444    <まねる>。  流行によってマネる、パクるといっても、現実にそのように自分がナリスマシすることによって、自分の心の中も影響を受け、また心もそれへと成り始める。知らず知らずのうちに自分の内的世界といったものが、そのようになってゆくのである。慣れや習慣・習性といったものがそれである。
  つまり、自分というのが、それへと移り行き、入り込んでゆくのである。自分もそうなのだと思えてくるのである。のみならず、自分はそうでなければならず、そうであるはずだと信じ始めるし、また確信もするのである。
  感情や意志といったものが、それへと移入してゆくのである。いわば密輸入である。自分でも気づかず知らないままで、自分がそれへと移ってゆくのである。取り憑かれると言ってもよい。これが「慣れ」なのである。
  それがホントの自分であり、自分に違いないと思えてもくるし、またそうした自分を信じるし、信じなければならないのである。そうしないことには、自分で自分を否定してしまうことになるからである。
  しかしまた、そうやって信じるということが、自分をして社会の一員として、周りの人々とのつながりや、キズナといったものを確かめることが出来るし、そしてまた、社会の中での自分というものを見つけることが出来るのである。
  そうだとすると、従ってまた、このような性格や人格といったものが、その中身がカラッポであろうとなかろうと、あるいは好きか嫌いか、またそれが悪いか正しいかなどということは、ほとんどどうでもよいことなのである。大事なことは、これ以外にないというのが、自分にとっての現実だからである。
  これを信じる以外にないというのが、自分にとっての現実だからである。そしてまた、これがシツケであり、道徳であり、シキタリ、オキテ、あるいはさらに進んで法律や信仰、宗教を作り出している。言い換えれば、これが自分たちが何よりも信じるもの、また、信じなければならないものとなっている。

  <カラッポ>。  しかし実際、そうしたことはたいてい中身はカラッポである。そんなことは、自分とはもともと関係のないことなのである。自分にとってみればそんなことは、どうでもよいことなのである。それどころか、カラッポの方が都合がよいのである。自分にとっても、また周りの人々にとってもそうなのである。
  そうやって、それが日常化・常態化していて、馴れて習性と化していて、自分が忘れられ、失われている。また、それに気づくことも意識することもない。実に便利で都合が良くできている。そしてこれは、自分自身にとっても、また社会にとっても必要とされ、求められていることでもある。
  どんな社会、どんな文明でも、見てはならないもの、知ってはならないことがあって、またそうしてこそ社会が成り立つのである。このような、暗黙の了解、タブーやオキテなしには、社会や文明は成り立ち得ないのである。それは社会の一員としての誰もが従わなければならない、強制力なのである。

  <共感>。  ここからまた、全体主義・共産主義への共感がわいてくる。自分のことを、何もかも他人が決めてくれるからである。自分のことを、自分で生きて行かなくても済むからである。自分はただ周りに合わせてナリスマスだけで、何も鴨がうまく生きて行けるからである。何も考えずに、知ることも、悩むこともせずに済むからである。実際、確かにそうした意味では、シアワセなのである。
  しかしまた実際、そうした生き方が向いている人々が、実は、世の中の多数派なのである。人間は、誰も苦労したくないのである。ラクして楽しい思いがしたいのである。
  しかし、そのためにはやはり、そうでない者を何としても探し出し、排除し続けなければならない。自分がそうであるためには、そうでない者がどうしても必要なのである。そして、こうした社会では、差別と排除、そして粛清がどうしても必要な、不可欠の条件とならざるを得ない。

  <怒り>。  しかしまた、そうした生き方しか知らず、そうした生き方しかできない人も、珍しくない。そうした人間は、いままで述べてきたことを聞くと、激しく憤り怒り出す。しかし、こうした人々の生き方・感じ方・考え方というのは、日本という社会がこれまでずっと、ずっと目指してきた理想的な人間モデルだったのである。
  誰からも慕われ、上司や先生からは可愛いがられ、部下や後輩からは尊敬される。そうした人間関係を理想としてきたのである。つまり、コネと談合の世界である。学校、会社、地域コミュニティ、そして政府とマスコミがそうであり続けたのである。彼らが、そして誰もが、それを望み、求め、目指し続けてきたものだったのである。そして、それが通用しなくなった。つまり、裏切られたのである。怒って当然なのである。そうした自分というのが、ないがしろにされ、無視され、陥れられたのである。自分が信じるもの、自分の拠り所となっているものが破壊されたのである。
  自分自身の存在理由、タマシイといったものを辱められたのである。だから怒って当然なのである。しかし、だれが悪いのでもない、悪いのは、自分がただそうだからなのである。取返しができず、つぶしもできず、もはやどうにもならず、どうしようもないから余計に腹が立つのである。といっても、何も珍しいことではない。時代の転換期というのは、いつでも、どこでもそうなのである。  ]