「儒教世界」

〜1、道徳的自由。


儒教的東アジア社会に、もともと自由な意味での道徳など存在せず、それは自分が判断するのでも、理解するのでもなく、自分でよしとするのでもない。そうした個人の自意識そのものが否定される。自己意識はあってはならない、わけのわからない、意味不明のものとして扱われる。だから不自由な道徳であり、自分の外から押し付けられる道徳とならざるを得ない。

道徳は、それ自体が絶対的強制力であるという以前に、自然の法則として受け入れられている。それに逆らったり、それどころか意識することも考えることも許されない、当然の自然の法則として身に付けられる。

このような自然の法則として、まるで自分が生きて呼吸する空気や水のように、自分と一体化して溶け込んでいる。考えても、意識してもならない、自然の流れや法則のように。ここに、家父長制の原理を見ることが出来る。

それは、元々からある自然の状態を出発点として、それを肯定するところから始まっている。自らを否定するのではなく、肯定するのを出発点とするのである。だから、そのままの状態が意識に反映され、それが当たり前で、永遠で、普遍ものと感じられる。

目次へ              つづく。