「古代ローマの自意識」
〜4、キッカケ。
もちろん、そうではなくて、自己の外部で認識される自己意識もある。自分と似たもの、あるいは正反対のものを見て、自分を強く意識する場合である。まったくの異質な世界の中で「自分」というのが意識されてくるのである。 スパルタとアテネ、日本とユーラシア大陸、全体主義と自由主義諸国のように。地理的にへだたっていて、直接のつながりが無いところで自分と違うものを見ている。つまり、相手と違う自分を見ている。そうした場面、そうしたキッカケで自分というのが強く意識されることもある。(場所) あるいは、外の世界は何も変わらないのに、自分自身が変わるとき、自分が強く意識されることもある。変化を繰り返す自己の内面で、あるいは自分たちの歴史を知るとき、自分自身というのが見いだされるときもある。自分自身の生理や肉体の機能のワケと理由を知ることになるのである。あるいはまた、自己の内部で、預かり知らない未知の部分が見えてくることもある。例えば、否定と肯定、没落と復活、生と死においても、よく見えてくる。いままで知らなかった自分というのが見えてくる。自分で自分が意識されてくる。(時間) |