「おなじ」

〜1、あやしい。


自分の考えというのが信用できない。それは、たしかにその通りで、そうした考えの基になっている常識や、自分自身の思考パターンにたいして、底なしの果てしない疑いを抱(いだか)かざるを得ない。思考パターンとは文化の型式なのである。なにか自分の考えが独立しているという訳ではなくて、社会のなかで規制され様式化され、あらかじめ定められているのである。それは、社会が作り出したものを、自分のものと勘違いしているのである。だから、自分が信用できなくて当然なのである。

信用できない。それどころかそれ以前の、自分の感覚の感じ方や、肉体の生理のリズム、そしてその情緒、心情のあり方についても深く限りない疑惑をいだいてしまう。自分自身の意識といったものが、はたして信用できるのだろうか? 怪(あや)しい、実にまったく怪しいのである。信用できない。

自分というのが、あちこちでズタズタに切断され、バラバラにされている。どこに自分がいて、どれがホントの自分なのか、自分でもわからなくなっている。世のなかの何もかもがうまく出来過ぎているのである。まるで言い合わせて仕組んだように。まるで、偽りの作り物のように。すべてがしらじらしく、偽りのつくりもののように思えてくるのである。これはきっとイミテーションワールドだ。

怪(あや)しい。けっしてなじめない。本能的に避けてしまう。そのわけは分からないけれども、底なしにあやしい。何もかもが、現実のすべてが映画館のスクリーンを見ているように、自分とは別世界のことのように思えてくるのである。

目次へ             つづく。