「暗示」
〜6、めざめ。
しかし、それはまた見かたを変えれば、いわば、新たな世界の誕生、めざめと復活、再生の瞬間なのである。始まりは終わりの後にくるのである。自己の肯定は自己否定の結果なのである。めざめは、それまでが眠りであったことが自覚されて「めざめ」と言えるのである。眠りのないめざめもなく、自己否定のない世界に自己の再生もないのである。 そうしたことが、理屈でもなく、外からやってくる権威でもなく、自分自身の内面のわけのわからない、得体の知れないところの直感として、本能として、なにかの衝動として浮かび上がって来て、映し出されたのである。なにかのイメージや、ささやき、何気ない自分でもよくわからない仕草(しぐさ)として。 そうしたことが象徴され、暗示され、意識されることなく受け入れられて行く。しかし確実に、新たな感覚や価値観として意識されている。はじめそれは、近くで見ていると奇人・変人としか見えないが、それが、やがてごく普通のあたり前の風景となってゆく。 新しい異質なものが受け入れられるとは、こういうことなのである。だれもそれと気づかないまま、いつの間にか広がってゆくのである。新しいこととは異質なものなのであって、それは自分の日常の世界には無かったものなのである。自分以外の、異質な世界からしか見えないものなのである。新たな「理由」の自覚なしに、新たな現実の意味は見えないのである。 |